撮影:甚田高穂

撮影:甚田高穂

 最近、バタバタしていて、ライブに行くこともままならぬ毎日を送っていた。
 不思議なもので、ライブの興奮から離れると、体がそれを忘れるのか、「ま、CDでいいか」と、なる。とくにこう暑いと、外出が億劫になり、最近は、電力節減のため、一つの部屋に冷房をかけ、なるべく冷気が逃げないように、閉じこもって暮らしている。この引きこもり部屋でCDをかけていれば十分に幸福だとなる。

 けれども、先日、家の近くのライブハウスに出かけた。
 とりわけ暑い日だったけれど、アルトサックスの河田健さんとピアノの大友孝彰さんのDUOがあると聞いたからだ。河田さんはアロージャズで活躍中のベテランサックス奏者で、大友さんは若干25歳の若手ピアニストだ。親子ほどに年齢の違う二人が、がっぷりよつに組む、これは魅力的な演奏になりそうだ。

 そして、思った。
 やっぱりライブはいいなと。
 リハーサルのとき、お二人は細かく打ち合わせをしながらも、最後はこのことばで締めくくっていた。「ま、状況しだいで・・」
 そうなのだ、ライブは状況次第、どういう風にでも変わる。

 私が演奏された曲をノートにせっせとかきつけていると、
 河田さんが「後でメモあげますよ」と、おっしゃった。
 そして、演奏後、ボールペンで書き付けた曲目メモをくださった。
 お寿司屋さんの「本日のおすすめのお品書き」のように、その日によって、演奏する曲が変わるから、印刷しておくわけにはいかない。
 メモでさえ、変更がある。
 演奏直前に、急に変えた曲もあれば、お客様のリクエストで演奏した曲もあったからだ。

 まさに状況によって、刻々と演奏が変わるのだ。
 次に何が起こるかわからない。
 前から感じていたけれど、ジャズは、とくにライブは生ものだと改めて思い知った。

 ところで、生ものは新鮮さが命。
 暑い暑い夜だけに、ジャズマンはとりわけアンテナを鋭くし、いま、このときを彩る曲目を私たちに提供してくれたのだろう。グズグズしていると、腐ってしまうものね。

撮影:甚田高穂

撮影:甚田高穂

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ベーシスト畠山 令さんとのDuoでBucharest International Jazz Competitonセミファイナルに選考され、5月11日から19日までルーマニアのブカレストに行ってきました。

このCompetitionはEuropa Jazz Festの一環で24カ国から25バンドが出場しました。セミファイナルは50~60分のステージ、課題曲『 St.Thomas 』で審査されます。

私達がいつ演奏するか、どこで演奏するかなどの詳細情報は全て現地に到着してからのことでした。

主催者から指定されたホテルに集合し、そこからがこのCompetitionの幕開けとなりました。(Europa Festa出場者を含め300人のミュージシャンが同じホテルに滞在)

私達はCompetition2日目、13日の演奏となりました。

実はこのCompetition,  練習場所が用意されていませんでしたので、日本を出発して3日目、これ以上楽器を弾かない日が増えていくのは不安ですから13日の演奏は私達にとって好条件でした。ただ、ベースは日本から持っていけず、再三にわたって確認はしましたが、演奏当日ぎりぎりまでどこで調達すればいいのかわかりませんでした。

海外ではこういう、いきあたりばったりなこともめずらしくありませんので、何事も柔軟に対応するという心構えはひとつ勉強にもなったことです。

演奏場所は100年もの歴史のあるOdeon Hall

Competition第1日目は250席くらいのホールが満員、立ち見まで出て大賑わいになりました。私は「明日こんなにたくさんの人に演奏を聴いてもらえるんだ」と思うとうれしくなり興奮がおさまりませんでした。

ちなみに、この日はリハーサルから見学して、合間に街を散策しましたが、このあたりは古い建物、教会がたくさん残っていて、そんな中にカフェテラスやおしゃれなショップが立ち並ぶ素敵な場所です。お茶をしながらいつまででもゆっくりしていたい、そんな場所です。夜もこの地区で夕食を食べましたが、ルーマニア料理は日本人好みの味付けで肉団子のスープやグラタール、ブルンザやクラティテなどどれも感動するくらいおいしいです。

そして、本番を明日にひかえ、私達ができることはイメージトレーニングだけでした。

お気に入りのCDをたくさん用意していましたので好きな音楽を聴いてモチベーションをあげていきました。Art Tatum, Charlie Parker, Ray Brown, Ahmad Jamal, Wynton Marsalis, Benny Green, Geri Allen, Brad Mehldau, Jason Moran…などなど

音のない空間でのイメージトレーニングも1時間ほど行い集中力をあげていきました。

本番当日になり、体調も万全。ベースも無事調達でき、リハーサルも問題なく進んで、本番をとてもよい状態でむかえることができました。

それぞれのオリジナル曲,全4曲に加えてReflection/Thelonious Monk,
課題曲であるSt.ThomasはベースをFeatureしてEven 8thのアレンジで演奏。

リラックスして,チャレンジしながら、楽しんで演奏しました。

たくさんのあたたかい観客にも恵まれて大声援の中ステージを終えることができました。

ブカレスト滞在中このCompetitionでたくさんのバンドを聴き、夜は滞在中のホテルのバーでのセッション、どのバンドもエネルギッシュで個性的で素直で音楽に対して情熱的で本当にたくさんの刺激を受け、大切なものをもらいました。

Competitionの結果は残念ながらファイナルに進出することができませんでした。

今回は良い結果をだすことができませんでしたが今の自分を精いっぱい表現できたことを誇りに思い、めげずに次のステップに向かってこれからも音楽を楽しもうと思います。

たくさんのミュージシャン、音楽に出会えたこと、何より初めての海外での演奏でとても楽しめたという経験がこれからの私にとって大きな自信になることでしょう。

一緒に演奏をした畠山令さん、応援してくれた人、出会った人、音楽に感謝します。

最後に

ブカレストという街はたくさんの色彩を持った街でした。

青、赤、黄、意思のある色

淡くただよう空色、きらきらと輝く年月の色、

鮮やかな民族衣装や陶器、刺繍やイースターエッグなどの民芸品もそれぞれのように。

力強くて優しい光の中の静かな影、神秘的で魅力的な街でした。

ブカレストを発つ日、街にはきれいな虹がかかっていました。

   吉田 優子

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 ジャズファンと落語ファンはかなりの割合で重なっているような気がする。落語家さんの中にも桂南光さんのようなジャズファンもいらっしゃるし、反対に山下洋輔さんのような落語ファンのジャズミュージシャンも多い。スタンダードナンバーと古典落語。中身はよく知っている内容のものであっても、演者によって「それ」をどう演じる(演奏する)かを楽しむのがその醍醐味というのも同じだ。  かく言う僕もラジオ関西の「電話リクエスト」で、ジャズの魅力に開眼したのとほぼ時を同じくして、「歌え!MBSヤングタウン」の司会をしていた桂三枝さんをとっかかりにして、落語の魅力にもはまっている。

 落語家は師匠や先達の名前を襲名することが多い。米朝さんのように一生同じ名前で通し、名前を大きくしていった方も中にはいらっしゃるのだが。生で落語を聴くようになったころ、桂小米さんが「枝雀」を、桂小春さんが「福團治」を、笑福亭光鶴さんが「枝鶴」を襲名し、その襲名披露の模様をテレビで見て、その厳かで華やいだ雰囲気に引き込まれた。その後、市染さんが「染語楼」を、染二さんが「染丸」を、小文枝さんが「文枝」を、べかこさんが「南光」、花枝さんが「あやめ」を、小米朝さんが「米團治」を襲名する襲名披露を生で見て感じ入ったものだ。それぞれの時に漫才の人がお祝いに出演するのだが、落語より生を聴く機会が少ない漫才をこういうときに聴けるのもうれしかった。くにお・とおるさん、寛太・寛大さん、いとし・こいしさん(「不細工で思い出したけど、君とこの嫁はん元気か?」というやつだった)の至芸に僕はこれらで触れている。

 このたび桂三枝さんが「文枝」を襲名する。長年にわたってテレビやラジオで全国的に知られた「三枝」の名前を捨てるのはかなりの冒険なのではないか。襲名する「文枝」が上方落語の大名跡であるにしてもだ。

 入門当初からラジオ・テレビで人気を博した三枝さんだが、近年は創作落語を数多く作り、演じ、また長らく関西にはなかった落語の定席「天満天神繁盛亭」を作るのにも上方落語協会会長として尽力された。

 大名跡「文枝」に相応しいのは先代文枝の筆頭弟子であることを除いても、誰もが納得することだ。

 新文枝の誕生を心から祝い、できればその襲名披露(神戸でも行われる)に足を運びたい。

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 高田渡さんが亡くなってこの4月で丸7年になる。映画『タカダ・ワタル的』が作られたことによって新たなフアンも増え、積極的なライヴ活動をスタートした最中、ツアー先で倒れて入院、そのまま帰らぬ人となったというのが返す返すも残念だ。世間に喧伝されているように彼は決して酒の飲みすぎで亡くなったのではない。

 日本のフォーク界における超大物という印象だが、亡くなった年齢は今の僕より若かった。

 僕が初めて渡さんの歌を聴いたのは中学3年生の時で、その時の渡さんは20歳になるかならぬかという年恰好なのだが、既に大物の風格があった。まだまだアメリカン・フォークのスタイルだけまねをして愛だの恋だの、星だの海だの歌うことが一般的だった日本のフォークソングシーンにおいて東西の詩人の詩や演歌師・添田唖禅坊の書生節をアメリカ民謡をドッキングさせるなどして辛辣な社会風刺や、大人の男の心情を歌う彼の歌もそんな風格と相俟って、単なるフォークソングというよりもたとえばフランスのジョルジュ・ブラッサンスにも通じるジャンルを超えた凄味があった。ここではレコードを出したばかりだった細野晴臣、大滝詠一らによるロック・バンド・はっぴいえんどの演奏や、バンドネオンの音が彼の歌にさらに深い陰影を付け、壮大なスケールを感じさせるものだ。

 73年に出た彼のアルバム『石』では、園田憲一とデキシ―・キングスが参加、昭和初期に流行した「私の青空」やデキシーランド・ジャズ風の自作曲(詞は近代詩人のもの)のバッキングを担当しているのだが、これがいい。戦前の榎本健一や岸井明、二村定一らの歌に匹敵するジャズソングになっている。

 その年、このころは毎年、天王寺・野外音楽堂で開催されていた野外コンサート「春一番」(奇しくも同じ年には山下洋輔トリオも出演し会場にいた僕はこの壮絶で魅力的なジャズの生に初めて触れてもいる)にレコードと同じく園田憲一とデキシ―キングを引き連れて出演、レコードよりさらに美しいグルーヴの歌と演奏を聴かせた。この模様はキングからでたコンサートのライヴ盤にも収められた。

 だが、予算の関係上、コンサートでこういうことができる機会はあとほとんどなく、なんとか音的にもレコードに近いものをライヴでもやりたいと彼はその後、高田渡とヒルトップ・ストリングス・バンドを結成。佐久間順平、大庭珍太、小林清という名うてのメンバーのバンジョーやギター、ウッドベースを得て、ステージでも楽しそうにデキシ―ランド・ジャズ風の音楽をやっていた。高田渡とヒルトップ・ストリングス・バンド名義では『バーボン・ストリート・ブルース』という名盤を一枚残している。

 ここに書いた彼のアルバムはすべてCD化され、現在でも簡単に手に入る。日本のフォーク・ソングなどほとんど聴いたことがないというジャズ・フアンはぜひ一度、これらの音盤に耳を傾けていただき、ジャンルを超えた彼の美しい音楽に触れてほしい。

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 薄荷葉っぱのことを知ったのは10年ほど前、僕の音楽上の兄貴分、ひがしのひとし、故藤村直樹、中川五郎らのCDがoff noteというレーベルから相次いで出たときのこと。ちょうど僕のCDもOZ DISCというレーベルから出たときで、東京でoff note VS OZ DISCというイベントが一週間にわたって行われたり、僕のトオリヌケ・コンサートにも彼らに出演してもらったりして、off note系のミュージシャンたちとの交流が深まっていたのだ。その中に京都を拠点に活動していた女性ヴォーカルを中心にしたユニット・薄荷葉っぱもいた。

 これらのミュージシャンたち、出自は僕も含めていわゆる関西フォークということになっているのだが、長年活動を続ける中、その音楽性の幅を広げていっていて、加えてoff noteを支えるミュージシャンには渋谷毅、川下直弘、中尾勘二、関島岳郎といったジャズのフィールドでも活躍している人たちが多く、ひがしの、藤村のアルバム同様、彼女たちのアルバムもジャズ・テイストも入った美しいアルバムに仕上がっていた。

 2011年9月に東京に歌いに行った。東京ではOZ DISCを主宰していた田口史人氏がやっているスポット・円盤でLIVEをしたのだが、これが松倉如子という、これまた田口が惚れ込んでCDを制作し、僕も大いに気にいっている女性シンガーが毎月やっている「松倉如子の月曜日」という毎月彼女が自分の好きなミュージシャンをゲストに呼んで行っているイベントのゲストとして呼んでもらったのだ。松倉はちょっとぶっ飛んだ天才肌の若い女性シンガー・ソングライターなのだが、楽器がまったくできないので、はちみつぱいという伝説のバンド(あがた森魚先輩のバッキングでも知られる)にいたころから僕が敬愛している兄貴分・渡辺勝さんがいつも歌の伴奏をしている。加えて、あの巨人・渋谷毅さんも松倉の歌に惚れ込んで時々バッキングをやっておられるのだった。僕が「松倉如子の月曜日」に呼んでもらったときはなんと、渋谷御大が松倉のバックでピアノを弾き、それで僕も渋谷御大とお近づきになることができた。

 それからしばらくして、大阪・十三の宝湯という銭湯で「上海バンスキングを唄う」というLIVEが行われた。ここは阪神淡路大震災のあと、一番最初に僕が風呂に入れたところだ。僕もレコードコンサートやトークショーをしていただいた京都のエンゲルス・ガールズというレコード屋の店主が企画して(宝湯は彼の実家だった!)薄荷葉っぱの下村よう子さん、これまたジャズのフィールドでも活躍しているコントラバス奏者・東ともみさんたちが、このエッセイでも何度も触れたミュージカル「上海バンスキング」で歌われた歌を歌い、演奏するというLIVE。.これが素晴らしかった。そのときに薄荷葉っぱのメンバーとしてしょっちゅう接近遭遇していた下村よう子さんと、渋谷毅さんや、僕の盟友・憂歌団のドラマー・島田和夫とも共演している東ともみさんともお近づきになれたのだった。

 改めて下村よう子さんが参加している薄荷葉っぱや、ウタタネというユニットのCDを聴き、この日購入した東ともみトリオのCDも聴き、彼女たちのプログレッシブで、それでいて美しく魅力的な歌と演奏に惚れた。その後、神戸のビッグ・アップルに東ともみトリオの演奏を聴きに行ったり、東ともみさんと詩+低音というユニットでCDも出しているシンガー・山内詩子さんと渋谷毅さんの歌と演奏を聴きに行ったりして、それぞれが独特で個性的なのはもちろんだが、その先進性と色っぽさに何か共通するところのある~それは渋谷さんの作り上げた世界と、それを敬愛する彼女たちの醸し出す世界なのだと思うが~世界にずぶずぶにはまってしまったのである。

 来年2月25日には、神戸・元町モトコ―2丁目のプラネットEARTHで下村よう子さんと東ともみさんをゲストに呼んで「上海バンスキングを唄う」LIVEをやる。また円盤で渋谷御大とご一緒した時、僕は渋谷さんが70年に由紀さおりさんに作った「生きがい」を歌った。これを東ともみさんにコントラバスを弾いてもらって2012年に出るニュー・アルバムに入れようと思っている。そんなとき由紀さおりさんがピンク・マルティーニと共演したアルバムが海外のチャートを席巻しているニュースが飛び込んできた。購入したこのアルバムは素晴らしかった。いろんなことが僕の周りで繋がりながらよいふうに動いていっているのを感じる。そしてそのキーワードとしてジャズがあることも…。

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カヴァーがブームだ。たくさんのシンガーがカヴァー・アルバムを発表し、その多くがよく売れているという。自分の作った歌、持ち歌以外の歌を歌うことをカヴァーというのだけれど、実は事はそんな簡単なことではない。昨今の風潮では自分の持ち歌以外の歌を歌えば、なんでもカヴァーというようなことになっているけれど、そこに自分の個性、思い、革新的な冒険…などが込められていなければ、それは本当のカヴァーとはいえないんじゃないの…というのが僕の私見です。
僕の出自であるロックやフォークソングは、自作曲であることがそのアイデンティティーの大きな部分を占めているが、ジャズにおいては、自作曲とカヴァーの比率は1対9くらいかな…という気がする。ジャズ、特にヴォーカルを聴く醍醐味はカヴァーの魅力を味わうことなんじゃないかと思う。いわゆるスタンダード・ナンバーをその歌手がどのように歌うのか、ミュージシャンがどのように演奏するのか…そこに演者の個性、思い、革新性などがどんなふうに込められているか…そんなことを思いながらジャズ・ヴォーカルに耳を傾けるのは至福の時となる。
正木麻衣子さんの『そよろ』というアルバムを聴いた。麻衣子さんの歌は、僕がラジオ関西の『ジャズ・ライヴ・イン・ソネ』という番組をやらせていただいていたとき、ソネに出演したライヴを初めて聴いた。
『そよろ』は麻衣子さんが普段一緒にプレイしている宗清洋さん、河田健さん、宮哲之さんらと幅広いジャンルの曲をカヴァーしたものに加え、麻衣子さんの詞にMark Guarriniさんとあの北野タダオさんが曲をつけた2曲(アレンジは2曲とも北野さんだ)が収録されている。麻衣子さん作詞の2曲も素晴らしいのだけれど、10曲のカヴァー曲が泣きたくなるほど美しい。
服部良一先生の超名曲「胸の振り子」(雪村いずみさんの悶絶のカヴァーがある)、学生運動の敗北に重ねられることもあった西田佐知子さんの「アカシアの雨がやむとき」、熊本の民謡「おてもやん」(麻衣子さんの歌唱が思わず抱きしめたくなるほど~ご主人、ごめんなさい!チキンジョージでのライヴでは最高のPAお世話になりました♪~色っぽい)、僕もカラオケ(!)で時々歌う平野愛子の「港が見える丘」など、その選曲の妙味も含めてすべてが美しい。「ワークソング」だと思って聴いていたらいつの間にか平尾昌晃さんのヒット曲「星はなんでも知っている」もうれしい。僕も長年のつきあい、京都の老舗のライヴハウス・拾得のオーナー・テリーさんが訳し、敬愛する久保田麻琴さんが歌った「ラッキー・オールド・サン」も素晴らしい。そして、僕が15歳のときからあこがれ、一時、音楽を辞め、川崎で本屋さんをやっていたとき、そこへ会いにいき、40歳のときに再び歌い始め、今も最高に好きなシンガー・早川義夫さんの「サルビアの花」がもう本当に最高だ。いろんな人が歌う「サルビア」を聴いてきたけど、こんな美しい「サルビア」は早川さんご本人の歌唱以外では初めて聴いた。
これこそが日本のカヴァー・アルバムだ。
麻衣子さんのライヴが、ご主人がPAを務める神戸のライヴハウス・チキンジョージで開催される。
10月29日(土)午後7時の開演。その日は僕もぜひチキンの客になりたい。

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 敬愛する音楽評論家・中村とうようさんが亡くなった。数年前から、ご自身が創刊された『ミュージックマガジン』『レコードコレクターズ』などを発行しているミュージックマガジン社のすべての役職から引かれ、客員教授を務めておられた武蔵野美術大学へ膨大な量のレコード、本を寄贈されるなど、〝整理に入っておられる〟のは薄々感じていた。でも『ミュージックマガジン』が『ニューミュージックマガジン』というタイトルだった頃から40年以上にわたって毎月連載して来られた「とうようズトーク」(会社からは引かれてもこの連載だけは続けておられた)の7月20日に出た8月号掲載分でも現政権の体たらくに対してお元気に吠えておられたのを読んだところだったので本当に残念で、残念でならない。
 僕が真剣に音楽と対峙し、自らも音楽をやるようになる以前からポピュラーミュージックの紹介者として、音楽評論家として、一家を成していたとうようさんだが、正に僕がロックやフォークソングにのめり込み、人前で歌い始めるのと時を同じくして先述の雑誌『ニューミュージックマガジン』を創刊される。グラビアでミュージシャンをアイドルのように紹介するのが音楽雑誌一般の趨勢だった時期に、ほとんど写真もなく、主として当時勃興期にあったロックについての精神的なことも含めた深く鋭い考察や、レコード会社のプレスリリース丸写しではない、時には超辛口にもなるレコード紹介はまだ15歳だった僕のその後の音楽への対峙し方に絶大な影響を与えてくれた。
 当時、時代を一番的確に写す最先端の音楽がロックだった訳だが、そうではあっても決してロックだけを聴いていて良い訳ではなくあらゆるジャンルのポピュラーミュージックに耳を傾けておいた方がよりロックを楽しむことができることを教えてくれたのも『ニューミュージックマガジン』であり、とうようさんであったのだ。
閑話休題、とうようさんと僕の間には血縁関係というのはまったくない。とうようさんも僕も本名のファーストネームの方を平仮名表記にしただけ(僕の場合は本来「よう」と書くところを「よお」と書いてはいるが)考えて見ればこれはすごく不思議なことだ。でも、とうようさんという方の存在はずっとずっと前から僕にとってあたりまえのものだったので、あえてそれを意識するようなことはなかったのだ。『ニューミュージックマガジン』が70年代初期に出していた『ミュージックレター』という新聞に17歳だった僕が書いた論文を載せてもらった時ももう既に僕は「中村よお」を名乗っていたし、その後『ニューミュージックマガジン』のニュース欄にミュージシャンとしての僕の動向をちょくちょく載せて戴いたりもしていた。とうようさんが編集長(当時)の雑誌でこの名前…。恐らくとうようさんは「なんだ、こいつ…」と思っておられたに違いない。音楽ライターの仕事をするようになってからは「何も考えずに(というか本名だから仕方ないのだが)この名前で投稿していた10代のときとは違って、言わばこの名前を確信犯的に看板にあげて音楽ライターをやっているのだから、とうようさんの会社の仕事は来ないだろうなあ」と思っていたのだが、その直後からもう何年にもわたって『レコードコレクターズ』には毎月、「ミュージックマガジン」にも時々(9月号にも書かせて戴いた)原稿を書かせてもらっている。2007年3月号の遠藤賢司さんの特集では、僕の原稿ととうようさんの原稿が並んで掲載された。うれしかった。
たまに編集部へ行くことはあってもとうようさんとお会いすることはなかった。ほかの場所でとうようさんのことを遠目に見たことは何度もあったが、お話しすることは遂にないままだった。
『レコードコレクターズ』は創刊時、とうようさんがこれまたお好きな古いジャズのレコードなどに愛着を持ち、それを収集することを無上の歓びとする読者のための雑誌としてスタートさせた。ロックからブルース、ワールドミュージックへと『ミュージックマガジン』(もうこのタイトルになっていた)を読みながら音楽の興味を広げて行きつつも、古いジャズというのは惹かれながらも詳しくはないジャンルだった。それが『レコードコレクターズ』を手引きとしてこれらにのめり込んで行くようになったのだ。キャブ・キャロウエイ、ザビア・クガート、ビング・クロスビー…そして二村定一、川畑文子、べティ稲田ら戦前の日本人ジャズ歌手、ナット・コール・トリオ、ミルス・ブラザーズ…。創刊号から色川武大氏の『命から二番目に大事な歌』が連載されたおり、この中でもたくさんの古いジャズソングの魅力を知った。この連載は後に『唄えば天国ジャズソング』のタイトルで単行本化された。この時期の『レココレ』は今も手元に置いてある、僕にとってのジャズソングの大切なガイドブックである。その後同誌はロック中心の内容に変わっていったが(だからこそ、僕が仕事できるようになったのだが)ジャンルは違っても真摯に音楽に向き合う姿勢は変わらない。それはとうようさんが79年の人生において一貫して貫いてこられたものであったと思う。7月号で特集が組まれたキャンディーズに対してもそれは変わることがなくうれしかった。
とうようさん、長い間ありがとうございました。とうようさんに教えてもらったやり方でこれからもいっぱい、いっぱい音楽を聴いて行きます。で、それについていっぱい、いっぱい原稿を書いていきます。

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 今、手元に『オ人形ダイナ』というブリッジという会社から最近リリースされたCDがある。これは何かと言うと昭和5年から日米開戦の16年頃までの間にレコード会社各社から出ていた〝童謡ジャズ〟というジャンルの音源をレコード会社の括りを超えて集めたコンピレーションアルバムなのだ。これが素晴らしい。

 〝童謡ジャズ〟というジャンルについては僕もこのCDを手にするまでまったく知らなかった。ただ、1980年代にテイチクレコードから出た『ジャズ・ポピュラー・ボーカル傑作集』という2枚組LP、これは昭和10年頃から戦後の23年頃までにテイチクから発売された日本人によるジャズ・ヴォーカルの傑作を集めたものなのだが、ここに今回出たCDにも収められているチェリー・ミヤノの「狼なんか怖くない」「スイート・ジェニー・リー」などが収められていて、子供が歌うジャズの不思議な魅力に惹きつけられながら「これは一体どういうものなのだろう」と不思議に思っていたのだ。

 昭和の初期、ジャズソングが流行、それは純然たるジャズのみならず、当時のモダンでハイカラな洋風の大衆音楽の総称である一面もあったのだが、その時代、民謡ジャズや浪花節ジャズなど様々なジャンルの音楽をジャズ風に演奏することが流行したそうだ。一方でレコードの普及に伴い、新旧の童謡が多くの童謡歌手によって吹き込まれてもいた。そんな中で、平井英子という子供の童謡歌手がジャズのアレンジで「人形」(わたしの人形はよい人形)「村の鍛冶屋」などの童謡をレコーディングし好評を博した。そして次々とジャズアレンジの童謡が各社から当時の童謡歌手たちによってリリースされて行った。これが〝童謡ジャズ〟のはじまりである。

また、ジャズソングの流行に伴い、昭和初期から東京や大阪の映画館、劇場などで、ジャズやダンスのショーが頻繁に行なわれ、そこからベイビー・タップ・ダンサーと呼ばれる子供の芸人が多数登場してきた。子役のシャーリー・テムプルが人気者になり、アメリカの漫画映画(今風に言うとアニメだが、やはりこの呼び方の方がしっくりくる)べティ・ブ―ブやミッキー・マウスが日本で上映されるようになると、日本の子供たちがテムプルやミッキーを真似て舞台で歌い踊るようにもなった。そして昭和10年ごろには舞台でジャズソングを歌い、タップダンスを踊るベイビー・タップ・ダンサーが多数登場してきて、彼女たちもジャズソングのレコードを吹き込むようになる。これらもまた〝童謡ジャズ〟と呼ばれるようになった。

 今回出た『オ人形ダイナ』というCDはこれら〝童謡ジャズ〟の集大成と言えるものだ。

 〝童謡ジャズ〟子供が童謡をジャズのアレンジで歌う…なんて聞くと、際物というか、それって聴いて面白いか?と一瞬思うのだが、先述のようにこれがなんとも言えない不思議な空気感を醸し出していて結構癖になる魅力を持っている。

中でもチェリー・ミヤノという人は、このエッセイでも以前紹介した日本のジャズ歌手・川畑文子のタップとアクロバットの弟子だったということで、歌においても師匠ゆずりのコケティッシュな魅力を振り撒いている。デビュー時は15歳だったというから子供というわけではないのだが、それでも大人のジャズ歌手にはない独特の雰囲気が聴く者の心を捕らえて離さない。
リラ・ハマダ、二ナ・ハマダという姉妹はそれぞれ7歳と3歳の時から舞台でベイビー・タップ・ダンサーとして活躍していたというから正に子供のジャズシンガーと言っていいだろう。べティ・ブ―プの人気にあやかろうとニッポン・べティ・ブ―プという少女歌手も登場し、彼女の歌声も今回のCDに収録されている。彼女はリラ・ハマダ、二ナ・ハマダの姉だったのではないかという説もある。

このCDでは少女童謡歌手の魅力もさることながら、それを支える演奏の方も素晴らしい、ハワイ生まれのアーネスト・カアイをリーダーとするアーネスト・カアイ・ジャズ・バンドをはじめ、各レコード会社専属のジャズバンドがスイング感溢れる演奏で、彼女たちの演奏を盛りたてている。
ジャケットもSP時代のレコード・アルバムを思わせる造りで、当時のジャケットやポスターの画像がふんだんに使われている。興味のある方はぜひ聴いていただきたい。

ちなみにタイトルの「オ人形ダイナ」はマーガレット・ユキというハーフの女の子が、戦前ジャズの象徴でもあるミルス・ブラザーズや日本ではエノケンが歌って有名な「ダイナ」を玩具の人形の歌にして歌っているもの。この歌と演奏も本当に素晴らしい。

撮影 甚田高穂

撮影 甚田高穂


 私にとって、ジャズは聴くというより、見るものという印象が強い。
 ライブハウスの片隅で、壁に体をもたせかけ、耳では音を聞きながら、目玉は演奏しているミュージシャンをひたと見つめる。それが、私にとって、一番、心地よいジャズの聞き方だ。
 周囲を見渡すと、ジャズファンの方々は目を閉じ、リズムに身をまかせて気持ちよさそうにしている。その姿を格好いいなとは思うけれど、私にはできない。ジャズマンの肌全体からほとばしる汗や、細かな指の動き、はらりとたれる髪の毛、そういった場面を確認しないではいられないからだ。

 先日、「カメラが聴いたジャズ」というDVDを見つけたので、すぐさまレンタルした。ジャズを視覚的にとらえたドキュメンタリー作品というから、見る派としては借りずになるものかと、思った。
 主人公は、ウィリアム・クラクストン。1950年代からジャズの歴史にかかわり続けたカメラマンで、音をカメラでとらえた伝説の人だ。監督はジュリアン・ベネディクト。彼は他にも「BLUE NOTE/ハート・オブ・モダン・ジャズ」を製作するなど、根っからジャズファンだ。音楽監督は人気トランペッターのティル・ブレナー。ブレナーはクラクストンとジャズへの思いをこめて、この映画のためにオリジナルスコアを提供した。

 クラクストンは、ファインダーをのぞき込みながら、次々に演奏風景を撮影した。細心の注意を払わなければ、演奏の邪魔だとつまみ出されるだろう。しかし、彼はステージに溶け込んでしまい、カメラを楽器のように扱いながら、スイングに乗って、シャッターを押し続けた。クラクストンの写真に焼き付けられたチャーリー・パーカやチェット・ベイカーは、信頼するとはこういう事だという表情を見せていて、本当に魅力的だ。

クラクストンは言う。
「私は写真のマジックにとりつかれた。人物や何らかの出来事にカメラのレンズを向け撮影すれば一瞬を捉えられると知ったからだ。その一瞬は二度と繰り返されない」。
 二度と繰り返されない一瞬、それはジャズそのものを表してもいる。
 プレイヤーと楽器は一体化しているようで、距離がある。カメラと目も、一体化しているようで、やはり同じ場所にはない。しかし、だからこそ、その間隙があってこそ、ジャズも写真も、独特のリズムが生まれるのだと。同じ曲を弾いても同じ演奏がないように、同じ人を同じシーンで撮影しても全く異なる写真ができあがる。その差異こそが、興奮を生むのだ。

子供の頃大病をして、大人にはなれないと医師に宣告された彼だったが、80歳で亡くなるまで、ジャズを愛し続けた。いつ死ぬかわからないという不安を、いつ死んでもいいという満足感に変えたクラクストン。良い写真を撮影したいと願い、ジャズマンに寄り添いながらも、ジャスマンとは決して一体化しなかったクラクストン。その微妙な距離こそが、カメラを通じてジャズを聴き続けた男の魅力だ。

いつの日か、カメラでジャズを聴いている人をこの目でみたい。それが私の新しい望みとなった。

撮影 甚田高穂

撮影 甚田高穂

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3月11日午後2時46分に発生した東北・関東大震災。その規模の大きさに加えて大津波による被害、そして引き続いて起こった原発の事故等による甚大な被害を受け、亡くなった方のご冥福をお祈りするとともに、怪我をされた方、ご家族や親しい方を亡くされた方、家をなくされた方に心よりお見舞い申し上げます。

16年前の阪神淡路大震災で、僕は住居が一部損壊、兄の家は全壊、嫂が怪我をしただけで、近しい誰をも亡くすことはなかったのだが、それでもそこから始まった震災後の長い日々に、傷つき、疲れ、それでもたくさんの人達にたくさんのものを戴きながら頑張って生きたという思いがある。

今回の震災が起こったあと、一体自分に何ができるのか考えながらそれをひとつひとつ具体化すべく日々過ごしている。とにもかくにも義捐金、まずはラジオ関西等地元メディア3社を通じて送らせて戴き、チキンジョージで行なわれた救援チャリティーライヴで歌い、三ノ宮センター街で行なわれたラジオ関西の公開生放送に出演し、義捐金募金を呼び掛けるお手伝いをさせていただいた。音楽、そしてラジオ、16年前に僕が大きく救われたそれらに今もずっと自分が係わり続けて来られて、その場から被災地への想いを届けるお手伝いをさせて戴けたのはありがたいことだと思う。

ラジオの大切さ、果たす役割の大きさは16年前、身にしみて体験したもの。当時はまだ番組をやらせて戴いてはいなかったのだが、思うところあって子供のころから慣れ親しんで来た地元AM局であるラジオ関西にダイヤルを合わせることがまた多くなって来ていた。目覚まし機能の付いたラジオの音と共に目覚め、地元から発信させられるリアルな情報に耳を傾けながら朝食を取るのが日常になっていたのだ。

その後、朝日新聞のエッセーその他にそのことについて繰り返し書かせて戴き、不思議な縁に導かれるようにそのラジオ関西で自分の番組をやらせて戴くようになった。

そうなってみて改めて気が付いたのが、震災を経験した地域でありながら、いかにラジオを持っていない人が多いかということだ。マンション等では電波が入り難いなどの問題もあるが、やはり震災後、ラジオから得ることができた多くのもののことを考えると、携帯ラジオは常に常備しておきたい。かく言う僕も、先述のように目覚まし代わりのラジオを枕元に置いて寝ていたものの、それが吹っ飛んで行かなかったのは奇跡のようなことで、しかも最初はラジオとしてよりも、足元を照らすライトとして使用していたのだ。表に出て、変わり果てた近隣の様子に唖然としながら、自分が手に持っているものがラジオであることに気が付き、ようやくスイッチを入れたのだった。ラジオ関西では既に朝のワイドを担当していた谷五郎さんらパーソナリティがスタジオに居て、大きな揺れの続く中、自ら体感しながらの貴い放送を続けておられたのだ。その後、安否情報や、物資情報がノンストップでCMなしでラジオから流れ続けることになった。これこそがラジオの使命と深く感じ入ったものだ。

そして音楽…。被災地に必要なのは水、食料、電気、ガス、そして医療…。音楽などは不急のものだ。しかし、あの時、音楽が震災で傷ついた心を温かくしてくれるものだということを僕らは痛感している。被災地の報道、安否情報、物資情報が淡々と続いていたラジオから突然流れてきたカーラ・ボノフの「涙に染めて」に僕は声をあげて泣いた。被災地の中では恵まれた環境にあった僕ですら、あの時は精神がひどく荒廃していたのだと思う。そこに水が染み込むように流れ込んできた音楽のことは忘れない。

今、被災地に思いを馳せながら、電気メーカーからたくさんの携帯ラジオが被災地に送られたというニュースを聞きながら、このことをその後あまり言ってこなかったのが悔やまれる。「みなさん、携帯ラジオを買って電池を入れてそれを日ごろから聞きましょう。そしてできれば肌身離さず身近なところに置いて置きましょう。小さいのをひとつ鞄の中に入れておいてもいいかもしれない。そのことがもし万が一、大きな災害に巻き込まれた時、どれくらい自分を助けてくれることか。情報もさることながら、そんなふうに、突然ラジオから流れて来た音楽にどれだけ心が癒されることか。現在ではたくさんのすぐれた機器でいろんなふうに音楽を楽しむことができる。でもラジオはそれだけではない。本当にたくさんのことができる魔法の箱なのです」

それを生業のひとつとしている僕ですら、自宅を片づけ、飛んで落ちたというより、3回転くらいしながら吹っ飛んだオ―ディオ機器を電源に繋ぎ直し、倒れた本棚からCDを取り出して聴いたのは震災から数カ月がたった頃だった。でも、音楽のことなんかまだまだ先だと思っていた時期に安否情報に続いて流れて来た音楽には本当に心が温かくなった。ラジオ番組の魅力と言うのは色々あるが、やはり僕は音楽を大切にしたいし、ダウンロードしたり、CDを買って聴く音楽も良いけれど、ラジオから流れて来た曲に思いがけなく和まされる快感というのは何物にも代えがたい。普段もラジオ番組というのはかくありたいと思う。

三ノ宮センター街にはいつもラジオ関西を聴いてくださる方が大勢来てくださって義捐金を募金してくださった。毎年のラジオ関西祭りの時にも思うのだが、ラジオはリスナーの方との結びつきが強いのだなあ。阪神淡路大震災の時も、いつも聴き馴染んだパーソナリティやアナウンサーがいつもの声で、情報を伝えてくれることが精神を落ち着かせてくれた。僕自身、そんなラジオや音楽に係わらせて戴く仕事をしながら、まだまだこれからが大変な被災地のために少しでも力になれたらと思わずにはいられない。