2006年6月8日掲載
港都の恩人、森に眠る 神戸市立外国人墓地
神戸市北区
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小野浜で埋葬された故人を移した「小野浜地区」。ゆるやかな弧を描く園路に沿って、明治期に作られた個性的な墓石が並ぶ=いずれも神戸市北区山田町下谷上 |
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林立する十字架の前を行く見学者。埋葬者や遺族への配慮のため、写真撮影などは厳しく制限される |
これまでに世界六十カ国の二千七百七十人が、二千六百九十一の墓石の下に眠る神戸市立外国人墓地。全国に「国際都市」は数あれど、日本で活躍した外国人の営みがこれほどの厚みで刻まれた街は多くない。
六甲山系・再度(ふたたび)山の北側。修法ケ原と呼ばれる盆地に隣接して、森の中に十四ヘクタールの敷地が広がる。キリスト、イスラム、ユダヤ、ヒンズー…。宗教ごとに区画され、多様な墓石が並ぶ。
◆
それぞれの人生のように、墓地の歩みも険しい道のりだった。
一八六七(慶応三)年十二月。翌年元日の兵庫開港を前に、欧米列強の艦隊が沖合に停泊していた。その間、四人の乗組員が相次いで病死。各国は遺体を生田川河口の小野浜(現・中央区浜辺通)に埋葬した。ついのすみかが砂地の河川敷では、亡くなった異人さんも大水が心配で安眠できなかっただろう。
墓地を山手に求める声は強く、神戸市は九九(明治三十二)年、春日野の傾斜地(現・中央区篭池通)を新たに整備した。その後、周囲が急速に市街化し、一九三六(昭和十一)年、市議会は両外国人墓地の修法ケ原移転を決め、翌年着工した。
ところが三八年の阪神大水害で工事が中断。四一年に第一次工事が完成した途端、太平洋戦争で事業が停止した。五一年に工事が再開し、翌年、小野浜の墓碑六百六十基を移設。六一年には春日野の千四百六基が移され、ようやく開園式が行われた。
◆
当初は誰でも中に入れたが、落書きなどが多発したため、昭和四十年代初めに遺族ら以外の立ち入りが禁止された。以来およそ四十年。「見学したい」との声が絶えず、市は今年、日時と人数を限定し試験的に公開を始めた。「神戸の歴史がよく分かる」と参加者が好評を寄せる一方、公開に難色を示す遺族がいる。港都の発展に寄与した先人の歩みを後世へ伝えるには、知恵と心遣いが必要だ。(写真・文 田中靖浩)
六甲山系・再度(ふたたび)山の北側。修法ケ原と呼ばれる盆地に隣接して、森の中に十四ヘクタールの敷地が広がる。キリスト、イスラム、ユダヤ、ヒンズー…。宗教ごとに区画され、多様な墓石が並ぶ。
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それぞれの人生のように、墓地の歩みも険しい道のりだった。
一八六七(慶応三)年十二月。翌年元日の兵庫開港を前に、欧米列強の艦隊が沖合に停泊していた。その間、四人の乗組員が相次いで病死。各国は遺体を生田川河口の小野浜(現・中央区浜辺通)に埋葬した。ついのすみかが砂地の河川敷では、亡くなった異人さんも大水が心配で安眠できなかっただろう。
墓地を山手に求める声は強く、神戸市は九九(明治三十二)年、春日野の傾斜地(現・中央区篭池通)を新たに整備した。その後、周囲が急速に市街化し、一九三六(昭和十一)年、市議会は両外国人墓地の修法ケ原移転を決め、翌年着工した。
ところが三八年の阪神大水害で工事が中断。四一年に第一次工事が完成した途端、太平洋戦争で事業が停止した。五一年に工事が再開し、翌年、小野浜の墓碑六百六十基を移設。六一年には春日野の千四百六基が移され、ようやく開園式が行われた。
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当初は誰でも中に入れたが、落書きなどが多発したため、昭和四十年代初めに遺族ら以外の立ち入りが禁止された。以来およそ四十年。「見学したい」との声が絶えず、市は今年、日時と人数を限定し試験的に公開を始めた。「神戸の歴史がよく分かる」と参加者が好評を寄せる一方、公開に難色を示す遺族がいる。港都の発展に寄与した先人の歩みを後世へ伝えるには、知恵と心遣いが必要だ。(写真・文 田中靖浩)

7―9月分の見学希望を今月末まで受付中。神戸市建設局公園砂防部森林整備事務所TEL078・371・5937
※この記事は過去に神戸新聞に掲載されたものです。
内容については変更になっている場合がありますので、おでかけの際はあらかじめご確認ください。
[28] 港都の恩人、森に眠る 神戸市立外国人墓地(2006-06-08)




