2005年4月28日掲載
港の変革、土中で支え 神戸臨港線橋台
神戸市中央区
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4対のうち、最も東に位置した第1架道橋の橋台。道路側側面(下)には赤褐色の焼過れんがを使い、美観に配慮。角の部分には花こう岩の隅石を配し、強度を増している。今年2月の撮影後、撤去された。 |
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更地となった神戸臨港線(東海道本線の支線)跡。橋台も盛り土も姿を消し、鉄路があったことはうかがえない=いずれも神戸市中央区脇浜海岸通3 |
真新しいビルが林立する再開発地区、HAT神戸(神戸市中央区・灘区)。その足元に昨春、古めかしい巨大な赤れんがの橋台が突然現れ、一年たたずに消えていった。
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一昨年廃止されたJR貨物の神戸臨港線。橋台は、路線敷の盛り土に埋もれていた。更地に戻す工事中、八基が“出土”した。いずれもコの字形で、幅七メートル前後、高さ五・六メートルから三・六メートル。二基一対で四カ所の高架を支えた。下には一部舗装された道路が通っていた。
その存在は国鉄時代の資料にも記載がなく、市教委文化財課の調査で解き明かされることになる。
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一八六八(明治元)年に開港した神戸港は、小規模なふ頭が数本しかなく、貨物量の急増に伴い施設や輸送手段の改善に迫られた。一九〇三(同三十六)年、灘駅から神戸税関まで約三・三キロの臨港線が着工、〇七年に開業する。れんがはメーカーの刻印から、同年までの製品と判明。高架橋は建設当時のものだった。
高架下の道路は、すぐ南の海岸十万平方メートルを臨港線開業の年から三年かけて埋め立てた葺合港湾と、北側の市街地とを結んでいた。日々その量を増す貨物が、立体交差を行き交ったことだろう。れんがの橋台は、ミナト神戸の都市計画の一翼を担い、大貿易港へと発展していく“転機”を記憶していた。
しかしその後、葺合港湾は工場用地に姿を変え、さらに五〇年代末、臨港線北側では、幹線道路整備に伴い、地盤がかさ上げされた。高架はその役割を終え、臨港線の路盤強化のために六〇年ごろ埋め立てられた。橋台は以後四十年以上、人目に触れることなく、忘れ去られた。
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市などは近代化遺産としての価値を認め、更地化工事の予定を一部変更、橋台一対を取り壊さずに残した。ただし、震災と不況で疲弊した地域経済に、その巨体を顕彰するだけの余力はない。当面、公開のめどはなく、再び地中に埋め戻された。(写真・文 田中靖浩)
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一昨年廃止されたJR貨物の神戸臨港線。橋台は、路線敷の盛り土に埋もれていた。更地に戻す工事中、八基が“出土”した。いずれもコの字形で、幅七メートル前後、高さ五・六メートルから三・六メートル。二基一対で四カ所の高架を支えた。下には一部舗装された道路が通っていた。
その存在は国鉄時代の資料にも記載がなく、市教委文化財課の調査で解き明かされることになる。
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一八六八(明治元)年に開港した神戸港は、小規模なふ頭が数本しかなく、貨物量の急増に伴い施設や輸送手段の改善に迫られた。一九〇三(同三十六)年、灘駅から神戸税関まで約三・三キロの臨港線が着工、〇七年に開業する。れんがはメーカーの刻印から、同年までの製品と判明。高架橋は建設当時のものだった。
高架下の道路は、すぐ南の海岸十万平方メートルを臨港線開業の年から三年かけて埋め立てた葺合港湾と、北側の市街地とを結んでいた。日々その量を増す貨物が、立体交差を行き交ったことだろう。れんがの橋台は、ミナト神戸の都市計画の一翼を担い、大貿易港へと発展していく“転機”を記憶していた。
しかしその後、葺合港湾は工場用地に姿を変え、さらに五〇年代末、臨港線北側では、幹線道路整備に伴い、地盤がかさ上げされた。高架はその役割を終え、臨港線の路盤強化のために六〇年ごろ埋め立てられた。橋台は以後四十年以上、人目に触れることなく、忘れ去られた。
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市などは近代化遺産としての価値を認め、更地化工事の予定を一部変更、橋台一対を取り壊さずに残した。ただし、震災と不況で疲弊した地域経済に、その巨体を顕彰するだけの余力はない。当面、公開のめどはなく、再び地中に埋め戻された。(写真・文 田中靖浩)

神戸市など全国の自治体が加盟する全国近代化遺産活用連絡協議会によると、「江戸時代末期以降、今からおよそ50年前までにつくられ、わが国の近代化に貢献した建造物など」。産業、交通・土木、都市・住宅、公共、軍事などの分野が挙げられる。文化庁は1990年度に「近代化遺産総合調査」を行い、文化財指定を進めている。
※この記事は過去に神戸新聞に掲載されたものです。
内容については変更になっている場合がありますので、おでかけの際はあらかじめご確認ください。
[2] 港の変革、土中で支え 神戸臨港線橋台(2005-04-28)




