2007年3月22日掲載
削られ続け、幾星霜 男鹿島の採石場
姫路市
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しんしんと冷える早春の深夜、対岸の姫路市街地からあふれる光を受け、採石場の岩壁が闇に浮かぶ。流れゆく満天の星は刻々と姿を変える島を絶えず見下ろしてきた(40分間露光)=いずれも姫路市家島町宮、男鹿島 |
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山を崩して採った石や土砂は海岸近くにため置かれた後、船に積み込まれる。左上は家島本島 |
黄色みを帯びた岩壁が屏風(びょうぶ)のようにそそり立つ。潮の香りを含んだ風が、足元の砂を巻き上げて吹き抜ける。人影はほとんどなく、重機がうなりを上げてせわしなく動く。
姫路港から南西へ十数キロの家島諸島は、採石業が経済を支える。中でも周囲約十キロの男(たん)鹿(が)島は、海岸線の大部分が採石場で、広範囲に花崗(かこう)岩がむき出した島影は、風光明美な播磨灘でひと際異彩を放っている。
◆
十六世紀後半、大坂城の築城に同諸島の石が使われたと言い伝えられるが、「記録が残るのは幕末以降」と地元の歴史研究家、奥山芳夫さん(68)は話す。西洋式の軍艦を建造した姫路藩は飾磨や高砂港などの修築を計画した。その際、石の埋蔵量が多く、海岸から船で容易に運び出せる同諸島に着目。家島本島の真浦集落が過半を所有する男鹿島に各地から石工が渡り、石を切り出した。
これがきっかけとなり、明治に入り神戸や大阪で近代的な港湾が整備されるにあたり大量の石材を供給した。日露戦争時、ロシア艦隊の拠点・旅順港を閉鎖する作戦でも同諸島の石が使われたという。明治末に家島村(現・姫路市家島町)の石材運搬船は百八十隻に上り、このころには地域の主要産業となっていた。
第二次大戦後は大型重機が採石場に続々と登場。戦後復興や高度成長期の土木事業に向け絶え間なく石材が生産された。島はより深い岩肌を露出し、形を急速に変えていった。
◆
近年まで関西国際空港や神戸空港の建設需要などに応えてきたが、この先に大型事業は見当たらない。業者には採石を終えた跡地を緑化する費用の負担ものしかかる。一時は男鹿島だけでも百軒に及んだというが、今や十五軒にまで減った。
鋭利な岩の峰を見つめる。変わり果てた姿に戸惑う獣が叫ぶかのよう。「百年を超えて私の身を削り続け、あなた方が得たものは何であったか」と。(写真・文 田中靖浩)
=おわり
姫路港から南西へ十数キロの家島諸島は、採石業が経済を支える。中でも周囲約十キロの男(たん)鹿(が)島は、海岸線の大部分が採石場で、広範囲に花崗(かこう)岩がむき出した島影は、風光明美な播磨灘でひと際異彩を放っている。
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十六世紀後半、大坂城の築城に同諸島の石が使われたと言い伝えられるが、「記録が残るのは幕末以降」と地元の歴史研究家、奥山芳夫さん(68)は話す。西洋式の軍艦を建造した姫路藩は飾磨や高砂港などの修築を計画した。その際、石の埋蔵量が多く、海岸から船で容易に運び出せる同諸島に着目。家島本島の真浦集落が過半を所有する男鹿島に各地から石工が渡り、石を切り出した。
これがきっかけとなり、明治に入り神戸や大阪で近代的な港湾が整備されるにあたり大量の石材を供給した。日露戦争時、ロシア艦隊の拠点・旅順港を閉鎖する作戦でも同諸島の石が使われたという。明治末に家島村(現・姫路市家島町)の石材運搬船は百八十隻に上り、このころには地域の主要産業となっていた。
第二次大戦後は大型重機が採石場に続々と登場。戦後復興や高度成長期の土木事業に向け絶え間なく石材が生産された。島はより深い岩肌を露出し、形を急速に変えていった。
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近年まで関西国際空港や神戸空港の建設需要などに応えてきたが、この先に大型事業は見当たらない。業者には採石を終えた跡地を緑化する費用の負担ものしかかる。一時は男鹿島だけでも百軒に及んだというが、今や十五軒にまで減った。
鋭利な岩の峰を見つめる。変わり果てた姿に戸惑う獣が叫ぶかのよう。「百年を超えて私の身を削り続け、あなた方が得たものは何であったか」と。(写真・文 田中靖浩)
=おわり

※この記事は過去に神戸新聞に掲載されたものです。
内容については変更になっている場合がありますので、おでかけの際はあらかじめご確認ください。
[46] 削られ続け、幾星霜 男鹿島の採石場(2007-03-22)




