2007年12月3日掲載
戦場での傷跡残す梵鐘 円照寺
加古川市志方町広尾
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伝説の真相はいかに。無数の傷が残る梵鐘=加古川市志方町広尾、円照寺 |
肌寒い曇り空の下で、一段と際立つツワブキの鮮やかな黄色い花が出迎えてくれた。
「花の寺」として親しまれている円照寺の境内は、まるで庭園のようなたたずまいを見せる。春はツバキやユキヤナギにライラックが咲き誇り、夏はノウゼンカズラが境内を彩る。
きっかけは約四十年前、当時学生だった上月義宗住職(60)が、移転前の旧境内に植えたユキヤナギ。株を増やして咲き誇り、雲海のような風景を見ようと、毎年多くの人が訪れるようになった。
今では花を目当てに県内外から参拝者がある。その誰もが穏やかな表情で帰路につくのを見て、もっと心なごんでもらおうと、一年を通して数十種の花を育てているほか、年数回、本堂で開くクラシックなどのコンサートも人気を博している。
そんな境内に、高さ約一メートルと小ぶりながら、迫力を感じさせる梵(ぼん)鐘(しょう)がある。駒のつめ部分には無数の凹凸があり、小さなひびも見える。一四九八(明応七)年、大工・大和相秀の作で、周防国の上野八幡宮(山口県周南市)に奉納された、と銘が刻まれている。
上月住職によると、一五八七(天正十五)年、豊臣秀吉の軍が九州へと島津征伐に赴く際、戦場で使用する陣鐘として上野八幡宮から徴用し、帰陣の際に志方八幡神社(加古川市)に置いた。その後、鐘が円照寺に譲られた―という。一方、朝鮮出兵(一五九二―九八)からの帰途に寺に置いたという話や、近くの妙正寺に納められたという説など、多くの言い伝えがあり、本当のところは分からないのだとか。
普段は使われないが、大みそかには集落に「新年」を告げる。「でも、できるだけ優しくたたきます。傷が広がると大変ですから」と上月住職。
荒々しい戦陣で傷を負い、故郷から遠く引き離された梵鐘。今は安住の地を得て、美しい花や音楽に囲まれ、ゆっくりと余生を送っているように見える。(黒田耕司)
「花の寺」として親しまれている円照寺の境内は、まるで庭園のようなたたずまいを見せる。春はツバキやユキヤナギにライラックが咲き誇り、夏はノウゼンカズラが境内を彩る。
きっかけは約四十年前、当時学生だった上月義宗住職(60)が、移転前の旧境内に植えたユキヤナギ。株を増やして咲き誇り、雲海のような風景を見ようと、毎年多くの人が訪れるようになった。
今では花を目当てに県内外から参拝者がある。その誰もが穏やかな表情で帰路につくのを見て、もっと心なごんでもらおうと、一年を通して数十種の花を育てているほか、年数回、本堂で開くクラシックなどのコンサートも人気を博している。
そんな境内に、高さ約一メートルと小ぶりながら、迫力を感じさせる梵(ぼん)鐘(しょう)がある。駒のつめ部分には無数の凹凸があり、小さなひびも見える。一四九八(明応七)年、大工・大和相秀の作で、周防国の上野八幡宮(山口県周南市)に奉納された、と銘が刻まれている。
上月住職によると、一五八七(天正十五)年、豊臣秀吉の軍が九州へと島津征伐に赴く際、戦場で使用する陣鐘として上野八幡宮から徴用し、帰陣の際に志方八幡神社(加古川市)に置いた。その後、鐘が円照寺に譲られた―という。一方、朝鮮出兵(一五九二―九八)からの帰途に寺に置いたという話や、近くの妙正寺に納められたという説など、多くの言い伝えがあり、本当のところは分からないのだとか。
普段は使われないが、大みそかには集落に「新年」を告げる。「でも、できるだけ優しくたたきます。傷が広がると大変ですから」と上月住職。
荒々しい戦陣で傷を負い、故郷から遠く引き離された梵鐘。今は安住の地を得て、美しい花や音楽に囲まれ、ゆっくりと余生を送っているように見える。(黒田耕司)

★円照寺TEL079・452・2067
【アクセス】神姫バス加古川駅発、細工所北口行「広尾西」下車徒歩5分。
※この記事は過去に神戸新聞に掲載されたものです。
内容については変更になっている場合がありますので、おでかけの際はあらかじめご確認ください。
戦場での傷跡残す梵鐘 円照寺(2007-12-03)











