2008年2月4日掲載
先人の息吹、生々しく 心月院
三田市西山2
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明治時代に東京から移された、九鬼家代々の正室の墓=三田市西山2、心月院 |
うっそうと茂る木々に囲まれ、ひっそりとたたずむ二つの墓石。戒名はなく、一文字の梵字(ぼんじ)だけが刻まれている。
「向かって右側が『不動明王』、左側が『十一面観音』の意味です」
墓を管理する心月院の児島正龍住職が説明してくれた。吉田茂元首相の懐刀といわれた白洲次郎と、妻の正子がそれぞれ眠る。
マッカーサーに唯一「ノー」と言えた日本人、日本で最初にジーンズをはいた男…。戦後の揺籃(ようらん)期に日本を支え、多くのエピソードを残した。正子は、古典芸能や美術工芸のエッセーなどで知られる随筆家だ。
二人の生きざまをしのび、多くのファンが全国から参拝に訪れる。
同寺の起源は一五八五年、豊臣秀吉によって建てられた寝殿。数度の火災で本堂などは焼け落ちたが、豪放な山門は創建当時のままだ。
寺に眠るのは、次郎と正子だけではない。寺は、江戸時代に白洲家が仕えた、三田藩主九鬼家の菩提(ぼだい)寺。
九鬼家墓所には代々の藩主の墓があるが、最後の藩主隆義の墓だけは、先祖たちの墓から離れた場所にある。
白壁に囲まれた墓地の一角。隆義の墓の前に、五輪塔をかたどった墓がずらりと並ぶ。九鬼家代々の正室の墓。こけむした姿が、時の流れを感じさせる。
「入り鉄砲に出女」と呼ばれた幕府の政策で、藩主の妻は、死後も江戸を出ることを許されなかった。明治維新後、隆義が、東京から、歴代の正室の墓を移築させたという。児島住職は「先祖への罪滅ぼしだったのかもしれませんね」と話す。
寺では、書や絵など九鬼家ゆかりの品が公開されている。白洲次郎を紹介する展示もある。「三田の近世・近代に触れてもらえたら」
先人たちの息吹が生々しく残る寺。彼らが歩いた石段を踏みしめながら、歴史の重みを実感した。
(本田純一)
「向かって右側が『不動明王』、左側が『十一面観音』の意味です」
墓を管理する心月院の児島正龍住職が説明してくれた。吉田茂元首相の懐刀といわれた白洲次郎と、妻の正子がそれぞれ眠る。
マッカーサーに唯一「ノー」と言えた日本人、日本で最初にジーンズをはいた男…。戦後の揺籃(ようらん)期に日本を支え、多くのエピソードを残した。正子は、古典芸能や美術工芸のエッセーなどで知られる随筆家だ。
二人の生きざまをしのび、多くのファンが全国から参拝に訪れる。
同寺の起源は一五八五年、豊臣秀吉によって建てられた寝殿。数度の火災で本堂などは焼け落ちたが、豪放な山門は創建当時のままだ。
寺に眠るのは、次郎と正子だけではない。寺は、江戸時代に白洲家が仕えた、三田藩主九鬼家の菩提(ぼだい)寺。
九鬼家墓所には代々の藩主の墓があるが、最後の藩主隆義の墓だけは、先祖たちの墓から離れた場所にある。
白壁に囲まれた墓地の一角。隆義の墓の前に、五輪塔をかたどった墓がずらりと並ぶ。九鬼家代々の正室の墓。こけむした姿が、時の流れを感じさせる。
「入り鉄砲に出女」と呼ばれた幕府の政策で、藩主の妻は、死後も江戸を出ることを許されなかった。明治維新後、隆義が、東京から、歴代の正室の墓を移築させたという。児島住職は「先祖への罪滅ぼしだったのかもしれませんね」と話す。
寺では、書や絵など九鬼家ゆかりの品が公開されている。白洲次郎を紹介する展示もある。「三田の近世・近代に触れてもらえたら」
先人たちの息吹が生々しく残る寺。彼らが歩いた石段を踏みしめながら、歴史の重みを実感した。
(本田純一)

★心月院TEL079・562・4310
【アクセス】JR・神鉄三田駅から徒歩約20分
※この記事は過去に神戸新聞に掲載されたものです。
内容については変更になっている場合がありますので、おでかけの際はあらかじめご確認ください。
先人の息吹、生々しく 心月院(2008-02-04)











