2008年3月24日掲載
近松が晩年過ごした地 広済寺
尼崎市久々知
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近松門左衛門の墓。花と清酒が手向けられていた=尼崎市久々知1、広済寺 |
通称、近松寺。隣にある日本庭園は「近松公園」と名付けられる。
ベンチでのんびり過ごすお年寄りや、広場で戯れる子どもたち。「ええっ、あの近松門左衛門の『近松』なんですか」―。江戸中期の劇作家、近松ゆかりの寺であることは意外と知られていない。
山門をくぐり境内を見渡すと、本堂脇の一角に、高さ五十センチほどの丸みを帯びた墓石が目に入る。近松の墓(国指定史跡)は檀(だん)家(か)の墓と並んでひっそりと立つ。
もともとは禅宗の古(こ)刹(さつ)。戦災で長く放置されていたが、一七一四(正徳四)年、日蓮宗の日昌上人が再興。その開山に尽力したのが近松だった。二人は大阪・道頓堀で知り合ったとされる。
近松は当時、六十二歳。本堂裏には「近松部屋」と呼ばれる建物があり、創作の拠点にしたとされる。翌一五年、ロングラン上演される浄瑠璃「国(こく)性(せん)爺(や)合戦」を発表。死去までの約十年間、近松はここで充実した時を過ごす。
「都会にはない静かな環境が気に入ったのでしょう」と石(いし)伏(ぶし)叡(えい)斎(さい)住職。「工都」と称される尼崎市中心部から北へ五キロ。臨海部に広がる工場群の喧噪(けんそう)はない。
地元住民は「近松の里」をアピールしようと懸命だ。近松作品を歌と踊りで表現した「近松音頭」もその一つ。保存会の古川侑加会長(70)は「以前であれば、広済寺と言えば近松はん―が合い言葉だった」と話す。
近松の遺品を集めた近松記念館の古川九一郎館長(75)も「本来は身近な存在であり、住民の誇り」と言い切る。
境内をぶらり歩く。さわやかな春の風が、公園内に建つ近松像の頬をなでる。晩年の地をここに選んだ理由が分かる気がした。(山下智寛)
ベンチでのんびり過ごすお年寄りや、広場で戯れる子どもたち。「ええっ、あの近松門左衛門の『近松』なんですか」―。江戸中期の劇作家、近松ゆかりの寺であることは意外と知られていない。
山門をくぐり境内を見渡すと、本堂脇の一角に、高さ五十センチほどの丸みを帯びた墓石が目に入る。近松の墓(国指定史跡)は檀(だん)家(か)の墓と並んでひっそりと立つ。
もともとは禅宗の古(こ)刹(さつ)。戦災で長く放置されていたが、一七一四(正徳四)年、日蓮宗の日昌上人が再興。その開山に尽力したのが近松だった。二人は大阪・道頓堀で知り合ったとされる。
近松は当時、六十二歳。本堂裏には「近松部屋」と呼ばれる建物があり、創作の拠点にしたとされる。翌一五年、ロングラン上演される浄瑠璃「国(こく)性(せん)爺(や)合戦」を発表。死去までの約十年間、近松はここで充実した時を過ごす。
「都会にはない静かな環境が気に入ったのでしょう」と石(いし)伏(ぶし)叡(えい)斎(さい)住職。「工都」と称される尼崎市中心部から北へ五キロ。臨海部に広がる工場群の喧噪(けんそう)はない。
地元住民は「近松の里」をアピールしようと懸命だ。近松作品を歌と踊りで表現した「近松音頭」もその一つ。保存会の古川侑加会長(70)は「以前であれば、広済寺と言えば近松はん―が合い言葉だった」と話す。
近松の遺品を集めた近松記念館の古川九一郎館長(75)も「本来は身近な存在であり、住民の誇り」と言い切る。
境内をぶらり歩く。さわやかな春の風が、公園内に建つ近松像の頬をなでる。晩年の地をここに選んだ理由が分かる気がした。(山下智寛)

★「近松記念館」には近松愛用の机など遺品約60点
★広済寺TEL06・6491・0815
【アクセス】JR宝塚線塚口駅から徒歩15分。阪急塚口駅から市バス約10―15分
※この記事は過去に神戸新聞に掲載されたものです。
内容については変更になっている場合がありますので、おでかけの際はあらかじめご確認ください。
近松が晩年過ごした地 広済寺(2008-03-24)











