2008年6月23日掲載
知る人ぞ知る高砂大仏 時光寺
高砂市時光寺町
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百歳を迎えた大仏。鋳造に使った鋳型は本堂(右)の階段下に保管されている(撮影・三津山朋彦)
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山門をくぐり、本堂を左に回り込むと、目の前に巨大な像が立ちはだかる。緑青に覆われながら、りりしさを失わない顔立ち。地元でも知る人ぞ知る「高砂の大仏」だ。
「うちの大仏さんは、ほんまええ顔してはります」。喜始文裕住職の妻香代子さん(57)は胸を張った。
光背を含めた像高は三メートル超。台座を含めれば五メートル近くになる。温容とは裏腹に、戦争を抜きにこの大仏を語ることはできない。
完成は一九〇七(明治四〇)年。日露戦争の戦死者らを弔うため、当時の住職や地元の有力者が発願した。第二次世界大戦では、兵器などの原料とするため供出が決まった。しかし、大仏を壊す日になると不吉なことが相次ぎ、延期されるうちに終戦を迎えたという。戦争を機に生まれ、戦争を生き延びた。
時光寺は、浄土宗の時光上人が一二四九(建長元)年に開山。一六〇八(慶長一三)年に池田輝政の命で現在の本堂などが再建された。
別名は播州善光寺。信濃の善光寺の熱心な信徒が、如来仏のお告げで時光寺を訪れ、本尊が光を放つ奇瑞(きずい)にあったという伝承に基づく。このように、同寺には民衆の信仰心に彩られた逸話が多い。
大仏造立では、一万人以上の民衆が、宗派を超えて古鏡や金、銀、銅など計三トン以上を喜捨した。当時は明治政府の進める廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)で、寺が衰退していた時期。大仏造りは、信徒が見せた信仰の意地といえるだろうか。
今年四月、開眼(かいげん)百年の法要が行われ、大仏の発願人の子孫らが顔をそろえた。大仏へのお礼を述べた筆頭総代の松本哲郎さん(77)=高砂市阿弥陀町=は「戦争を乗り越え、私たちをずっと見守ってくれた、という思いを強くした」と話す。(田中伸明)
「うちの大仏さんは、ほんまええ顔してはります」。喜始文裕住職の妻香代子さん(57)は胸を張った。
光背を含めた像高は三メートル超。台座を含めれば五メートル近くになる。温容とは裏腹に、戦争を抜きにこの大仏を語ることはできない。
完成は一九〇七(明治四〇)年。日露戦争の戦死者らを弔うため、当時の住職や地元の有力者が発願した。第二次世界大戦では、兵器などの原料とするため供出が決まった。しかし、大仏を壊す日になると不吉なことが相次ぎ、延期されるうちに終戦を迎えたという。戦争を機に生まれ、戦争を生き延びた。
時光寺は、浄土宗の時光上人が一二四九(建長元)年に開山。一六〇八(慶長一三)年に池田輝政の命で現在の本堂などが再建された。
別名は播州善光寺。信濃の善光寺の熱心な信徒が、如来仏のお告げで時光寺を訪れ、本尊が光を放つ奇瑞(きずい)にあったという伝承に基づく。このように、同寺には民衆の信仰心に彩られた逸話が多い。
大仏造立では、一万人以上の民衆が、宗派を超えて古鏡や金、銀、銅など計三トン以上を喜捨した。当時は明治政府の進める廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)で、寺が衰退していた時期。大仏造りは、信徒が見せた信仰の意地といえるだろうか。
今年四月、開眼(かいげん)百年の法要が行われ、大仏の発願人の子孫らが顔をそろえた。大仏へのお礼を述べた筆頭総代の松本哲郎さん(77)=高砂市阿弥陀町=は「戦争を乗り越え、私たちをずっと見守ってくれた、という思いを強くした」と話す。(田中伸明)

★時光寺TEL079・447・1134
【アクセス】 JR神戸線曽根駅から徒歩10分強。加古川バイパス高砂北ランプから車で5分
※この記事は過去に神戸新聞に掲載されたものです。
内容については変更になっている場合がありますので、おでかけの際はあらかじめご確認ください。
知る人ぞ知る高砂大仏 時光寺(2008-06-23)













