2008年9月1日掲載
境内に残る「浜」の歴史 光明寺
明石市鍛冶屋町
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明石海峡を借景に、かつては寺が内海に映ったとされる。街並みは様変わりし、周囲はマンションなどが立ち並ぶ=光明寺
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なぜ、こんな場所に建っているのだろう―。出勤途中、横を通り過ぎながらずっと思っていた。明石港は目と鼻の先。マンションや飲食店が入るビルが並ぶ市街地の一角に、通称「浜光明寺」はある。
先日、昔の明石の街並みを記録する写真集で、ゆかりの写真を見つけた。明治期、この寺の境内から撮影した一枚。腰高の竹柵の向こうに、白砂青松の砂浜が広がる絶景。浜光明寺の名にうなずく。
意を新たに、豪壮な山門と本堂が残る寺を訪ねた。「明石海峡と淡路島を借景にしようと、庭も造られなかった」と山口芳典住職(66)は解説する。今は塀と建物に遮られ、見られない景色が惜しい。
沿革によると、もとは鎌倉時代、三木市に創建された。三木城主・別所長治が豊臣秀吉に滅ぼされた後、元和三(一六一七)年、明石城を築いた小笠原忠政(忠真)が現在地に寺を建立した。城下の街割りは、宮本武蔵が手がけたとの伝承があり、寺は海からの攻撃に備えたという戦略的な意図も伝えられる。
驚いたのは、住所に残る三木との縁。寺が立地するのは明石市鍛冶屋町。文字通り、近くに鍛冶屋が軒を連ねた。その多くは寺とともに、三木から移ったのだという。山口住職は「寺が一緒に行かないか、と職人に声をかけたのでは」と推測する。
本堂の隣には、明治十八(一八八五)年八月、山陽道を巡幸した明治天皇が宿泊した書院もある。天皇もやはり、境内からの雄大な眺めをほめられたそうだ。寺には、旧明石郡内の有力者が天皇に見せた書画などの記録も残る。
祝いの提灯がつるされた通りを抜け、天皇を乗せた馬車は寺の山門をくぐったという。境内で、その騒ぎを想像すると時間が経つのを忘れた。(永田憲亮)
先日、昔の明石の街並みを記録する写真集で、ゆかりの写真を見つけた。明治期、この寺の境内から撮影した一枚。腰高の竹柵の向こうに、白砂青松の砂浜が広がる絶景。浜光明寺の名にうなずく。
意を新たに、豪壮な山門と本堂が残る寺を訪ねた。「明石海峡と淡路島を借景にしようと、庭も造られなかった」と山口芳典住職(66)は解説する。今は塀と建物に遮られ、見られない景色が惜しい。
沿革によると、もとは鎌倉時代、三木市に創建された。三木城主・別所長治が豊臣秀吉に滅ぼされた後、元和三(一六一七)年、明石城を築いた小笠原忠政(忠真)が現在地に寺を建立した。城下の街割りは、宮本武蔵が手がけたとの伝承があり、寺は海からの攻撃に備えたという戦略的な意図も伝えられる。
驚いたのは、住所に残る三木との縁。寺が立地するのは明石市鍛冶屋町。文字通り、近くに鍛冶屋が軒を連ねた。その多くは寺とともに、三木から移ったのだという。山口住職は「寺が一緒に行かないか、と職人に声をかけたのでは」と推測する。
本堂の隣には、明治十八(一八八五)年八月、山陽道を巡幸した明治天皇が宿泊した書院もある。天皇もやはり、境内からの雄大な眺めをほめられたそうだ。寺には、旧明石郡内の有力者が天皇に見せた書画などの記録も残る。
祝いの提灯がつるされた通りを抜け、天皇を乗せた馬車は寺の山門をくぐったという。境内で、その騒ぎを想像すると時間が経つのを忘れた。(永田憲亮)

★光明寺TEL078・911・3928
〈アクセス〉JR、山陽電鉄明石駅から、南に約500メートル。たこフェリーに通じる錦江橋の手前
※この記事は過去に神戸新聞に掲載されたものです。
内容については変更になっている場合がありますので、おでかけの際はあらかじめご確認ください。
境内に残る「浜」の歴史 光明寺(2008-09-01)











