2008年9月29日掲載
文化の薫り、次代に継承 富松神社
尼崎市富松町
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鎮守の森に囲まれた富松神社。奥には薪能の舞台となる「舞殿」が見える=尼崎市富松町2 |
「工都」と称される尼崎市にあって、その静けさはまるで別世界のようだ。こんもりと茂った鎮守の森に足を踏み入れると、時間の流れが緩やかに感じられ、しばし都会の喧噪(けんそう)を忘れさせてくれる。
鳥居をくぐった右手、境内のほぼ中央に、毎年七月二十六日に薪能が行われる常設の舞台「舞殿」がある。来年で三十回目を迎える「富松薪能」は、いまや地域の誇りだ。
奈良時代、僧行基が現在の伊丹市を中心に開墾事業を行った際、周辺二十三カ所につくった坊の一つが富松神社の起源とされる。一帯は農村として拡大し、豊作を祈る歌や踊りが地域に伝承されていった。
善見壽男宮司(59)によると、江戸時代、尼崎藩主が藩内の神社を詣でる際、村人たちは殿様をもてなすため、にわか芝居を演じた。その影響か、「謡(うたい)」の文化が後々盛んになり、戦前は、旦那(だんな)衆の教養として、農家でも謡曲を学ぶことが多かったという。
芸能好きの風土を現代に呼び覚ますきっかけとなったのが、一九八〇年に地元の観世流能楽師・山村啓雄さん(74)が神社で演じた舞台。山村さんは、大の能楽ファンの父親から「自分の目の黒いうちに舞う姿を見せてほしい」と頼まれ、舞を奉納したという。これが地域の共感の輪を広げ、「ぜひ来年も」との声が上がり、地域住民による富松薪能の会が発足、八六年には舞殿が完成した。
二〇〇三年からは「尼崎こども能楽教室」を開講。山村さんの指導で練習を重ねた子どもらは、薪能の前座で舞殿の舞台に上がる。
善見宮司は「都会の中の田舎として、神社の役割を認識しながら、伝統芸能の発展を目指したい」と力を込める。先人たちがまいた文化の種は、着実に根付き始めている。(岡西篤志)
鳥居をくぐった右手、境内のほぼ中央に、毎年七月二十六日に薪能が行われる常設の舞台「舞殿」がある。来年で三十回目を迎える「富松薪能」は、いまや地域の誇りだ。
奈良時代、僧行基が現在の伊丹市を中心に開墾事業を行った際、周辺二十三カ所につくった坊の一つが富松神社の起源とされる。一帯は農村として拡大し、豊作を祈る歌や踊りが地域に伝承されていった。
善見壽男宮司(59)によると、江戸時代、尼崎藩主が藩内の神社を詣でる際、村人たちは殿様をもてなすため、にわか芝居を演じた。その影響か、「謡(うたい)」の文化が後々盛んになり、戦前は、旦那(だんな)衆の教養として、農家でも謡曲を学ぶことが多かったという。
芸能好きの風土を現代に呼び覚ますきっかけとなったのが、一九八〇年に地元の観世流能楽師・山村啓雄さん(74)が神社で演じた舞台。山村さんは、大の能楽ファンの父親から「自分の目の黒いうちに舞う姿を見せてほしい」と頼まれ、舞を奉納したという。これが地域の共感の輪を広げ、「ぜひ来年も」との声が上がり、地域住民による富松薪能の会が発足、八六年には舞殿が完成した。
二〇〇三年からは「尼崎こども能楽教室」を開講。山村さんの指導で練習を重ねた子どもらは、薪能の前座で舞殿の舞台に上がる。
善見宮司は「都会の中の田舎として、神社の役割を認識しながら、伝統芸能の発展を目指したい」と力を込める。先人たちがまいた文化の種は、着実に根付き始めている。(岡西篤志)

★富松神社TEL06・6421・5830
【アクセス】 阪急武庫之荘駅から北東へ約1キロ。徒歩だと約15分。
※この記事は過去に神戸新聞に掲載されたものです。
内容については変更になっている場合がありますので、おでかけの際はあらかじめご確認ください。
文化の薫り、次代に継承 富松神社(2008-09-29)











