2009年3月9日掲載
涅槃図に1000年前思う 鶴林寺
加古川市加古川町北在家
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重厚な造りの本堂=加古川市加古川町北在家 |
仁王門をくぐると、石畳の向こうに重厚な本堂(国宝、室町時代)がたたずむ。その端正な姿にしばし見入る。さらに進むと、右手に太子堂(国宝、平安時代)が現れる。特徴的な造りは、法隆寺夢殿を連想させずにはいられない。鶴林寺が「播磨の法隆寺」と呼ばれるゆえんだろうか。
伝承によると、六世紀末、高句麗(こうくり)の僧恵(えべん)が播磨にやってきた。恵便に一目会おうと、聖徳太子は播磨を訪ね、「木の丸殿」で教えを請うた。これを記念し、太子は、側近の秦河勝(はたのかわかつ)に四天王寺聖霊院を建設させた。これが鶴林寺の始まりとされる。「木の丸殿」跡と伝わる遺構は、塔頭(たっちゅう)の一角に残っている。
秦河勝は後年、西播磨の赤穂坂越で生涯を終えたとされる。播磨と太子は、何か特別な関係性をうかがわせる。伝承は本当にあった話と考えたくなる。
宝物館に入り、仏教美術品の数々に目を見張った。日本を代表する白鳳仏の聖観音立像(国重文)は、「拈華微笑(ねんげみしょう)」の穏やかな表情が魅力的だ。恵便座像(県文化財、平安時代)や聖徳太子像(市文化財、十二世紀後半)は、生前の面影をしのばせるようなリアルな像。今月十五日まで、太子堂涅槃図(ねはんず)(国重文)の復元模写も展示されている。
涅槃図は、幹栄盛住職(71)が三十年以上前に見つけた。太子堂内に古い仏画があるという話は、寺に古くから伝わっていたが、すすで真っ黒に変色し、幹住職が赤外線写真で詳しく調べるまで、だれも気付かなかったという。
昨年、東京芸大の院生の手で復元模写され、国内でも最古級とされる涅槃図の全容が分かった。
白地に赤、青、緑が浮かぶ鮮やかな彩色。万人が悲しむ釈迦(しゃか)の入滅を描きながら、図の印象は明るい。「古人はどんな思いを込めたのだろう」と考えるうちに、約千年前にタイムスリップしたような気持ちになった。
(三津山朋彦)
伝承によると、六世紀末、高句麗(こうくり)の僧恵(えべん)が播磨にやってきた。恵便に一目会おうと、聖徳太子は播磨を訪ね、「木の丸殿」で教えを請うた。これを記念し、太子は、側近の秦河勝(はたのかわかつ)に四天王寺聖霊院を建設させた。これが鶴林寺の始まりとされる。「木の丸殿」跡と伝わる遺構は、塔頭(たっちゅう)の一角に残っている。
秦河勝は後年、西播磨の赤穂坂越で生涯を終えたとされる。播磨と太子は、何か特別な関係性をうかがわせる。伝承は本当にあった話と考えたくなる。
宝物館に入り、仏教美術品の数々に目を見張った。日本を代表する白鳳仏の聖観音立像(国重文)は、「拈華微笑(ねんげみしょう)」の穏やかな表情が魅力的だ。恵便座像(県文化財、平安時代)や聖徳太子像(市文化財、十二世紀後半)は、生前の面影をしのばせるようなリアルな像。今月十五日まで、太子堂涅槃図(ねはんず)(国重文)の復元模写も展示されている。
涅槃図は、幹栄盛住職(71)が三十年以上前に見つけた。太子堂内に古い仏画があるという話は、寺に古くから伝わっていたが、すすで真っ黒に変色し、幹住職が赤外線写真で詳しく調べるまで、だれも気付かなかったという。
昨年、東京芸大の院生の手で復元模写され、国内でも最古級とされる涅槃図の全容が分かった。
白地に赤、青、緑が浮かぶ鮮やかな彩色。万人が悲しむ釈迦(しゃか)の入滅を描きながら、図の印象は明るい。「古人はどんな思いを込めたのだろう」と考えるうちに、約千年前にタイムスリップしたような気持ちになった。
(三津山朋彦)

★鶴林寺TEL079・454・7053
<アクセス> JR加古川駅からバスで8分、徒歩で25分。
※この記事は過去に神戸新聞に掲載されたものです。
内容については変更になっている場合がありますので、おでかけの際はあらかじめご確認ください。
涅槃図に1000年前思う 鶴林寺(2009-03-09)











