2009年5月21日掲載
歴代明石藩主が眠る境内 長寿院(ちょうじゅいん)
明石市人丸町
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三つ葉葵の紋が彫刻された山門と、15代明石藩主と妻を祭る御霊屋=明石市人丸町 |
明石駅の近く。すぐ北側にある人丸山の木立が、涼しげな木陰をつくる。境内に併設する保育園の園庭を通るのが標準時子午線。ほんの少し顔を上げれば、明石市立天文科学館の大時計が目に入る。
「ここでは時計はいらないんですよ。境内で眠っているお殿様方も、時間を知るにはご不自由ないですね」。〓岡泉禮住職(68)の妻、明子さん(64)が穏やかにほほ笑む。
開基は一六二七(寛永四)年。「融国寺」と号する禅寺だったが、第八代明石藩主として、越前国大野藩から明石に入った松平直明の帰依を受けて改宗。号も現在の長寿院に改めた。以来、約二百年にわたって明石を治めた越前松平家の当主や妻子を祭る廟所(びょうしょ)や御霊屋(みたまや)が残る。
歴代藩主に厚遇され、一般檀家(だんか)の支えが必要なかった「お殿様」の寺院を「まち」のお寺へと変えたのは、二度の苦難だった。最初は、明治維新後の廃藩置県。「時代が一変してお殿様の後押しがなくなり、えらい貧乏になったようです」と住職。住民から檀家を募って辛くも乗り越えたが、付近を焼き尽くした明石空襲では本堂を失った。
戦火の後に開かれたのが、昨年末に六十周年を迎えた保育園だ。先代の慈禮住職が、焼け野原となったまちに「何か手助けを」と、近くの子どもらを集めて児童福祉に取り組んだ。明子さんは「廃藩置県の後はまちの人に救われた。ささやかな恩返しという思いやったんでしょうね」。今も境内には、園児らの無邪気な笑い声が絶えない。
時折、卒園生たちが家族を連れて参拝に訪れるという。「大人になって、ふるさとの歴史をあらためて知ったと言うてね。うれしいことです」。まちの変遷、悠久の時の流れを見守った子午線。明子さんの背後で、大時計が夕暮れを告げた。(大森優子)
(注)〓は「雨冠」の下に「准」の右側に「鳥」
「ここでは時計はいらないんですよ。境内で眠っているお殿様方も、時間を知るにはご不自由ないですね」。〓岡泉禮住職(68)の妻、明子さん(64)が穏やかにほほ笑む。
開基は一六二七(寛永四)年。「融国寺」と号する禅寺だったが、第八代明石藩主として、越前国大野藩から明石に入った松平直明の帰依を受けて改宗。号も現在の長寿院に改めた。以来、約二百年にわたって明石を治めた越前松平家の当主や妻子を祭る廟所(びょうしょ)や御霊屋(みたまや)が残る。
歴代藩主に厚遇され、一般檀家(だんか)の支えが必要なかった「お殿様」の寺院を「まち」のお寺へと変えたのは、二度の苦難だった。最初は、明治維新後の廃藩置県。「時代が一変してお殿様の後押しがなくなり、えらい貧乏になったようです」と住職。住民から檀家を募って辛くも乗り越えたが、付近を焼き尽くした明石空襲では本堂を失った。
戦火の後に開かれたのが、昨年末に六十周年を迎えた保育園だ。先代の慈禮住職が、焼け野原となったまちに「何か手助けを」と、近くの子どもらを集めて児童福祉に取り組んだ。明子さんは「廃藩置県の後はまちの人に救われた。ささやかな恩返しという思いやったんでしょうね」。今も境内には、園児らの無邪気な笑い声が絶えない。
時折、卒園生たちが家族を連れて参拝に訪れるという。「大人になって、ふるさとの歴史をあらためて知ったと言うてね。うれしいことです」。まちの変遷、悠久の時の流れを見守った子午線。明子さんの背後で、大時計が夕暮れを告げた。(大森優子)
(注)〓は「雨冠」の下に「准」の右側に「鳥」

【アクセス】 JR・山陽電鉄明石駅より徒歩7分、山陽電鉄人丸前駅から徒歩3分。
※この記事は過去に神戸新聞に掲載されたものです。
内容については変更になっている場合がありますので、おでかけの際はあらかじめご確認ください。
歴代明石藩主が眠る境内 長寿院(ちょうじゅいん)(2009-05-21)











