2009年6月4日掲載
境内に残る敦盛の悲劇 須磨寺
神戸市須磨区須磨寺町
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敦盛と直実の一騎打ちを再現した「源平の庭」。蕪村の直筆を刻んだ句碑も=神戸市須磨区 |
山陽電鉄須磨寺駅で降り、参道の須磨寺前商店街を歩く。昭和の趣の門前町が、ほっこりとした気分にさせてくれる。後ろ髪を引かれながら商店街を後にし、信号を渡って坂を上ると、古寺らしい境内が視界に入る。
正式の名は「上野山(じょうやさん)福祥寺」だが、「須磨寺」の愛称で親しまれている。1946(昭和21)年には真言宗須磨寺派が開宗され、「大本山須磨寺」として多くの人々の信仰を集める。
平安前期の886(仁和2)年の建立。当時は天台宗で、7堂12房を抱える大伽藍(がらん)だったという。戦乱など幾多の災難に見舞われ、興廃を繰り返しながら、今も三つの塔頭(たっちゅう)が並ぶ。
源頼政が再建したとされる仁王門をくぐり抜けると、ほどなく左手に、馬にまたがった武将が向き合う姿をかたどった銅像が現れた。
一の谷合戦の悲劇を伝える「源平の庭」。銅像は、平敦盛(あつもり)が源氏方の熊谷直実(なおざね)と一騎打ちしている様子を再現している。庭の一角には句碑がある。
「笛の音に 波もより来る 須磨の秋」
江戸中期の俳人、与謝蕪村が敦盛が死の直前まで肌身離さず持っていたとされる「青葉の笛」の音色を表現した一句。蕪村の直筆を模写した句碑という。若くして非業の死を遂げた敦盛の無念はいかばかりだったろう。討ち取った直実の悲しみも伝わってくるようだ。
「須磨寺は源氏物語、源平合戦など須磨にある数多くの史跡の拠点。さまざまな歴史と出合えます」と話すのは、特定非営利活動法人(NPO法人)「須磨歴史倶楽部(くらぶ)」の西海淳二理事長(57)。同法人は、須磨の観光ガイドボランティアや須磨学の研究に取り組んでいる。
敦盛の悲劇に思いをはせながら、静寂に包まれた境内を巡る歴史散策。悠久の歴史を感じるひとときだ。
(河尻 悟)
正式の名は「上野山(じょうやさん)福祥寺」だが、「須磨寺」の愛称で親しまれている。1946(昭和21)年には真言宗須磨寺派が開宗され、「大本山須磨寺」として多くの人々の信仰を集める。
平安前期の886(仁和2)年の建立。当時は天台宗で、7堂12房を抱える大伽藍(がらん)だったという。戦乱など幾多の災難に見舞われ、興廃を繰り返しながら、今も三つの塔頭(たっちゅう)が並ぶ。
源頼政が再建したとされる仁王門をくぐり抜けると、ほどなく左手に、馬にまたがった武将が向き合う姿をかたどった銅像が現れた。
一の谷合戦の悲劇を伝える「源平の庭」。銅像は、平敦盛(あつもり)が源氏方の熊谷直実(なおざね)と一騎打ちしている様子を再現している。庭の一角には句碑がある。
「笛の音に 波もより来る 須磨の秋」
江戸中期の俳人、与謝蕪村が敦盛が死の直前まで肌身離さず持っていたとされる「青葉の笛」の音色を表現した一句。蕪村の直筆を模写した句碑という。若くして非業の死を遂げた敦盛の無念はいかばかりだったろう。討ち取った直実の悲しみも伝わってくるようだ。
「須磨寺は源氏物語、源平合戦など須磨にある数多くの史跡の拠点。さまざまな歴史と出合えます」と話すのは、特定非営利活動法人(NPO法人)「須磨歴史倶楽部(くらぶ)」の西海淳二理事長(57)。同法人は、須磨の観光ガイドボランティアや須磨学の研究に取り組んでいる。
敦盛の悲劇に思いをはせながら、静寂に包まれた境内を巡る歴史散策。悠久の歴史を感じるひとときだ。
(河尻 悟)

〈アクセス〉
山陽電鉄須磨寺駅下車、北へ徒歩約5分。
※この記事は過去に神戸新聞に掲載されたものです。
内容については変更になっている場合がありますので、おでかけの際はあらかじめご確認ください。
境内に残る敦盛の悲劇 須磨寺(2009-06-04)













